フーリエの夢 – おわりに

6月29日(日)のコンピュータメディア工学科
見て! ふれて! 肌で感じる! 体験型オープンキャンパス を終え。。。
アンケート調査などから多くの良好な言葉を頂きました。
大変ありがとうございます。

コンピュータメディア工学科の音を目で見る体験講座『フーリエの夢』で登場したフーリさんについて加筆したいと思います。 フーリエさんの人生のついて知ってもテストの点数が取れるわけではありませんが。。。コンピュータメディア工学科は人とものをつなぎあたたかい社会を創る学科より、是非フーリが生きた時代やフーリへの人生にも興味を持ってフーリエ数学を使って頂ければと思っています。
 特にフーリエは、大変数学が好きでまじめな方だったと思われる記述がたくさんあります。そしてまじめだけではなく社交的でまわりの方々や弟子たちに慕われていたことがよくわかるエピソードが残されています。またフーリエを語るとき絶対なくてならないのは、ナポレオンボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年8月15日 – 1821年5月5日)の存在があります。以下に少し長くなりますが、フーリエの人生を簡単に紹介します。

フーリエは、フランスのオセールという町で洗濯屋(補正もしいていたことから仕立て屋との記述もあります)の9番目の息子として生まれます。8歳のときに父親がなくなり続いて母親もなくなるという不幸に会いますが、近所の人たちの世話で地元のベネディクト派司教のもとにあずけられ、同じベネディクト派の僧侶の経営する陸軍幼年学校へ入学します。そして陸軍幼年学校でフーリエは、夜中になってからもいらなくなったロウソクを集めて1人で数学を勉強していたことが知られています(時代が違うので一言。。。身分の壁があった当時は数学を教える学校は士官学校でした)。
 フーリエにはお金がありませんでしたが、陸軍幼年学校を卒業すると僧侶たちの勧めで修道院で修道士(修練士)としての修行をするかたわら, 数学を勉強を独学で続け数学の実力を認められて、他の修練士に初等数学を教えるように命を受けます。非常に評判が良く慕われていたそうです。そのことが分かることとして、1789年にフーリエが論文発表のためパリに向かう途中にフランス革命が起こり、身分社会から自由になるとともに故郷の友人たちによって幼年学校の数学教師の職に就きます。
 フーリエがすばらしい教育者でもあった逸話として、フーリエはラグランジュやモンジュのもとで理工系エリート養成高等教育機関のエコール・ポリテクニークの助講師となり、その後には解析学の教授にまでなっています。ちなみに理工系エリート養成高等教育機関のエコール・ポリテクニークはナポレオンがフランス革命後の技術将校の不足に対処するために軍に所属させた学校で有名であり、その伝統は引き継がれ今でも国防省が管理しています。このころからフーリエとナポレオンとの交流ははじまります。

フーリエはナポレオンエジプト遠征に文化使節団の一員として参加します。フーリエの能力は数学だけでなく遠征中の行政・外交手腕をナポレオンが認められてイゼール県知事に任命され、知事として多くの事業を成功させ、その功績によってナポレオン皇帝から男爵の位を得ます。また忙しい知事としての仕事の合間に、固体内の熱伝導を数学的に研究をします。フーリエの熱伝導に関する論文は正当性が疑問視され、熱伝導方程式の説明も不十分とされ実は論文は受理されませんでした。しかしながらフランス科学院は「熱伝導の法則の数学的理論を与え、この理論を精密な実験結果と比較せよ」という懸賞論文を出し、フーリエはこれに応じて先の論文を大幅に加筆訂正して提出し、見事にアカデミー賞を受賞することとになります。

その後、ナポレオンがモスクワ遠征に失敗した後に、ライプチヒの戦いにも敗れ退位してエルバ島に流されます。当時の社会としてどうしようもないのですが。。。フーリエはルイ18世の新政府に忠誠を誓います。このときナポレオンに仕えた数学者・物理学者でいなくなった方もいます。 ナポレオンがエルバ島から脱出したとき、再度ナポレオンに忠誠を誓いますが、ワーテルローの戦いで負けたナポレオンは結局百日天下で終わりセントヘレナ島に流さ、復位したルイ18世は裏切ったフーリエを許さず罷免されてしまいます。
 このことが影響して、フーリエはわずかの年金と財産を切り売りしながら生活することとなりますが、ここでも教え子がセーヌ県統計局長の職を用意してあげます。たとえどんなことが起きてもフーリエの研究心が折れることはなく、統計局長になったら職に関係する生命保険数学の研究をしていたことがわかっています。
 またフランス科学学士院はフーリエを会員に推薦しましたが、18世は裏切ったフーリエを許さず許可しませんでしたが、何度も何度もフランス科学学士院から推薦され、ルイ18世もしぶしぶ認めフランスアカデミーの会員となり、常務幹事までにも選ばれます。さらには最高の栄誉であるフランセーズ会員に推薦され認められています。

1824年には熱の研究を「熱の解析的理論」という本にまとめたが、これは数学の詩であると讃えられてます。しかしながら研究は証明は不十分でしたが弟子によって厳密化が行われていきました。世の中が再び7月革命へと動いていく時期の1830年に、フーリエは63歳で亡くなっています。
 フーリエ数学は現在、光、音、さらには振動のスペクトル解析など工学上の重要な道具として、また線形微分方程式を解くという数学的応用など広く利用されています。

フーリエは人生でも、そして研究でも、多くの人に助けられながら人生を終えたことがわかります。